説教要約(2月)

2023年2月26(日)   説教題:「あなたたちの時」   聖書;ルカによる福音書22章47~53節
 イエス様が裏切られて逮捕される場面です。ユダが裏切ったのにはサタンが入り込んだからと書かれています。「サタン」という言葉には「離れさせようとする」という意味があります。ユダにはイエス様から離れさせようとするためにサタンが入りました。その働きによって民衆は武装して集まり、弟子たちはそれに対抗しようとします。神様から離れてしまうことによって、両者は恐怖によって支配されていました。
 この場面はサタンが支配する暗闇の時です。しかしイエス様は「これはサタンのせいだ」とは言われませんでした。そしてこの暗闇の時をこのように言われました。「あなたたちの時」と。ユダにサタンが入り込んだこと。これはきっかけに過ぎません。神様から離れてしまうのは、そのきっかによって離れてしまう弱さを持っている人間です。悪魔やサタンと聞けば、外から入ってくる悪い存在のような印象を受けます。確かに聖書に書かれているように、そのような存在もあるのでしょう。しかしそれだけではありません。これは私たちの中にあるものです。私たちの弱さ、罪深さ、不完全さ。それらがイエス様を裏切りました。それらが人間の力で対抗しました。それらが武装してイエス様を襲おうとしました。このユダや民衆、弟子たちを通して見えてくるのは、私たちの中にある罪深さです。イエス様を逮捕して十字架に架けようとした弱さ。これは私たちの中にあります。サタンはそれを増幅させるきっかけでしかありません。だからイエス様はこの暗闇の時を「あなたたちの時」と言ったのです。
 ここでイエス様は既にそのことを分かっていました。イエス様は弟子たちが戦おうとしたときに、それを止めました。その中でイエス様が選んだのは戦うのではなく、癒すことです。癒しは神様の名によって行われる業です。この箇所に登場する人たちの中で、イエス様だけが神様から離れませんでした。暗闇の時に一人だけが神様と共にある光の時を歩んでいます。そして神様から離れることがなかったからこそ、十字架に架かっていかれました。私たちを赦すためです。私たちにも聖書に書かかれているような弱さがあります。それは、言葉で聞いたり、努力して振り払えるものではありません。そのように聞くと絶望的な気持ちにもなってきますが、それを贖い、神様が赦してくれるようにしてくれました。それがイエス様の十字架の出来事です。十字架によって赦されているから、弱い私たちは神様に愛されて繋がっていくことができます。暗闇の時にも、光であるイエス様により頼むことができるのです。


2023年2月19(日)   説教題:「幸い」   聖書;ルカによる福音書6章20~26節
 創立73周年記念礼拝です。湖山教会は家庭集会から始まりました。現在ではこうして会堂や土地、付帯施設も備えられていますが、最初は何もありませんでした。神様の恵みによって今の湖山教会は与えられていったのです。
 イエス様は貧しい人が富んでいる人より幸いであると言われました。「富んでいる人」の不幸さとは「あなたがたはもう慰めを受けている」ということです。ここでの「受けている」という言葉には「これ以上は必要ない」という意味があります。富んでいることによって、既に慰めを充分に受けていて「これ以上は必要ない」と思うことが不幸です。続く21節と25節には、それぞれに対して「今」という言葉が加えられています。これは飢えたり泣いたりしている「今」が変えられる「将来」のときを読み手に意識させます。それは神様によって与えられる将来の救いです。そのことが22節には「天にはおおきなむくいがある」と書かれています。この救いが与えられる将来がいつになるのかは分かりません。もしかしたら生きているうちではなく、神様のもとへと旅立ったときかもしれません。ですが必ず「大きな報い」がある「将来」は与えられていきます。
 これが創立記念に与えられたことを考えますと、教会の歩みもイエス様の言われたとおりだったように思います。湖山教会とこの場所も最初は、本当に何もない貧しさの中でスタートしました。しかし、それは「貧しさ」ではありません。神様が家庭集会に慰めをもって臨んでくださり、満たしてくれていました。建物や物資ではなく、ただ神様がそこにいてくださることを支えに湖山教会は始まったのです。
 そのような湖山教会の始まりを「今」として迎えた人たちは、もうこの場にはおられません。その時々に働いてくださったときの「今」は、泣いていたり飢えているような、そして時に憎まれるような苦しさを覚えておられたかもしれません。しかし、神様は報いを用意してくださいました。それぞれの「今」を生きた人たちにとっての「報い」は、こうして礼拝を守っている私たちが地上にいることです。4人の家庭集会から始まった小さな群れが、規模は決して大きくないながらも、しっかりと湖山の地でキリストを証し続けている。毎週の礼拝に人が与えられて守ることができている。この光景を見ないで死んだ方もおられますが、それは神様のいる天から見守ってくれていますこの恵みの出来事こそが、かつて「今」を生きた人たちにとっての「将来」。イエス様が約束してくれた「大きな報い」なのです。
 そしてこうして礼拝を守る私たちの「今」は、これから先の未来で湖山教会に繋がっていく人たちの「将来」になっていきます。私たちの「今」にも、そして「将来」にも、イエス様は一緒にいてくださいます。そして尽きることない恵みで慰めて、その報いを与えると約束してくださいました。人間の思い描くことは崩れ去っていきますが、神様の計画はこの将来現わされる報いを約束してくれました。私たちにとって、それは大きな「幸い」です。この幸いがある希望を信じて、「将来」を思い描きながら、「今」を生きてまいりましょう。

2023年2月12(日)   説教題:「敵を愛しなさい」   聖書;ルカによる福音書6章12~19節
 イエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。敵に対しては自分にして「もらいたくない」ことをするのが当たり前の中で、イエス様の言われたことは常識を打ち破ることです。人の目には愚かに見える行いですが、神の目にはそれが「たくさんの報いがある」出来事です。
 それでも敵を愛することは難しいと思います。ここで少し視点を変えてみましょう。このみ言葉を聞いていくときには自分と「敵」という構図で考えていました。しかしこれを語られたのはイエス様です。イエス様の敵は誰だったのかと考えを巡らしてみました。福音書を読んでみますと律法学者やファリサイ派など、いろんな敵役が出てきます。十字架でイエス様を葬り去ろうと企てたために、彼らはイエス様の敵となりました。十字架というものを軸として考えた場合、イエス様の敵は十字架に架けようとした者たちです。表面的には、イエス様を十字架に架けたのは律法学者やファリサイ派、当時の役人たちでした。しかしイエス様の十字架は単なる処刑ではありません。私たちの罪を赦すための出来事です。神様の計画された十字架は、人間の罪を赦すためのものでした。イエス様を十字架に架けたのは当時の人々だけではなく、私たち自身でもあります。そのように考えますとイエス様の敵が見えてきます。イエス様を十字架に架けた人。それは当時の権力者だけではありません。わたしたちです。じつは私たちもイエス様が「愛しなさい」と教えられた「敵」だったのです。
 「敵を愛しなさい」この言葉を道徳的な教えとして向き合っていくと重荷でしかありません。それは私たちがどうしたってぬぐい切れない憎しみをもっているからです。敵を愛せと言われても、愛することができない弱さを持っています。しかし、敵である私たちは既にイエス様によって愛されている。そのように考えたときに、これが理想論ではなくイエス様からの赦しの呼びかけとして響いてきます。弱さを持っているために、私たちはイエス様を十字架に架ける「敵」でした。それは今も変わらずに続いています。そのような憎しみによって生きる私たちに、キリストはそれでも赦しと愛を示してくれました。「敵を愛しなさい」と言われても愛せない私たちです。しかし、そんな私たちのことを赦してくれる十字架のキリストがいます。このキリストによって神様と繋がって歩んでいくことが私たちの赦しです。イエス様によって私たちは赦しと救いに招かれています。私たちが愛せない敵も、取り去ることのできない憎しみも、既にイエス様が十字架を通して赦してくれているのです。
2023年2月5(日)   説教題:「選ばれた12人」   聖書;ルカによる福音書6章12~19節

12人が選ばれた場面のみ言葉です。聖書を読んでみますと、この弟子たちはあまり優秀な人たちではありません。イエス様に聞かれても変な受け答えしかできないし、信じ切れずに困らせてしまう。そんな頼りない存在でした。しかしここで12人が選ばれたことによって、十字架への道と、復活の後に使徒言行録に書かれている教会の誕生が始まっていきます。イエス様の前には何も出来ない一人であるけれども、本人も周りの人たちも知らないところで、救いに関与している。それがこの使徒たちです。

 私たちもそのような一人だと思います。この弟子たちの姿は私たち人間のことを現わしています。私たちはイエス様の前に何かが秀でた人間ではありません。もちろん、いろんな賜物を持っていますが、イエス様なしでは何もできない存在です。そんな私たちですがイエス様は選んで遣わしてくださいます。十字架によって赦されていること。そして教会に繋がって人々に福音を伝えていくことのために、私たちを遣わしてくださいます。目覚ましい伝道活動は私たち一人ひとりにはできないかもしれません。ですが、ここでの12人のように、誰か一人欠けたとしても、伝道は進んでいきません。私たちの教会には高齢や様々な事情によって教会の礼拝に来ることができない人もおられますが、それでも神様は一人ひとりを選んで湖山教会に繋がる使徒にしてくださいました。私たち一人ひとりが湖山の地で選ばれた12人です。自覚的にも無自覚的にも福音を証していくために選ばれた使徒として、この地に与えられています。

 ときには弟子たちのようにイエス様の前に、何か見当違いな言動をしてしまうかもしれません。そしてユダのように、イエス様のことを売り渡してしまうかもしれません。ですが、そんな私たち一人ひとりのことを十字架によって赦してくれたのがイエス様です。それによって私たちは赦されて救われています。そしてこの救いを知らせる一人として、湖山教会に置いてくださいました。私たちはイエス様によって遣わされる者として、その行いや行動を通してキリストを証ししていきます。ただ救われた私たちがこの世界で生きていることが、大きな意味での伝道です。そのために神様は私たちを救い、そして十字架によって赦された者として遣わしてくださいました。私たち一人ひとりが新しい救いを伝える者として、この世界に置かれているのです。